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2008年8月

2008年8月27日 (水)

今年もNNGへ!!!

いつもお知らせ遅くなってしまい......

今年のNNG反核コンサートは、8月28日(木)、
北沢タウンホールです。

「発信する子どもたち」とリトルパワープロジェクトで、
『Home Town は地球!だから放射能はいらな〜い』という展示をします。

今年はNNGのスペシャルなオリジナルユニットに大注目!

コンサートの詳細はhttp://www.no-nukes-gig.com/

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2008年8月24日 (日)

「遺伝子組み換えでない」って、ほんと?

先日、活動資金を補うために、フリーマーケットをしました。

「発信する子どもたち」では、『食とエネルギー』に関するアンケートをしました。
その内容はhttp://yaplog.jp/heiwax2/を見て下さい。

その後、帰省先でも親戚のみんなにアンケートに答えてもらいました。

たった4問ですが、みんな間違えたくないらしく、けっこう真剣に考えてくれて、「電気代50億は有り得ない」と主婦が言えば、「うちの会社だって年間2千万かかってんだぜ」と誰かが言い、関心ないだろうと勝手に思っていた高齢のおじさんが「放射能は自然界にもあるしね...全く出てないってことはありえないね。」と言えば、その娘が「え〜っ!出てちゃまずいでしょう?!」と反論。

これ、けっこうおもしろ〜い!と、娘とニヤニヤしてしまいました。

正解を発表する娘は、「残念!全問正解は誰もいません!」と得意げに、こういうことなんですよ...と、詳しく説明。
たまに私が情報を補充しましたが、その後世代を超えて盛り上がりました。

みなさんもやってみてはいかがですか?

アンケートをきっかけに気づきになること間違いなし!です。

Photo


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2008年8月22日 (金)

ずっと戦後でいよう!

今朝(8月22日)の朝日新聞ーあしたを考えるーから。

現在93才のジャーナリスト、 むの たけじ さんは、1945年8月、「負け戦を勝ち戦とだまして報道した責任をとる」と、朝日新聞を退社。

新聞社さえ知らぬ間に戦争に突き進んで行った現実から、
「今は弾丸の飛ばない戦争状態」と語る。

「新聞社でも3人おれば口つぐむ。2人だと誰がばらしたか分かるけど、それ以上だとわからないから。みんな不信感だらけ。自分がいつ非国民と言われるかの恐怖心で隣近所がお互いをしばりあう。戦争やると人間が人間でなくなるの。」

「戦争いらぬ、というのは、資本主義を否定すること。戦争は国家対国家、デモクラシー対ファッショなどあったが、今、根底にあるのは、人工的に起こす消費。作って売ってもうける。そこにある欲望が、戦争に拍車をかけてきた。無限の発展はいらない。腹八分目で我慢する生き方が必要なんです。」

「戦争をやれぬ、とは兵隊になる人間が一人もいなきゃいいということですよ。やる人間がいなきゃ兵器があったって動かないわけだから。自衛隊が海外に行くのは人道主義だって言うんでしょ、だったら武器置いて、労働着で行けばいいじゃないの。」

1942年3月にジャワに軍政布告した時に記者として従軍していた むの さんは、その前に高級将校を酔わせ、極秘文書を見たそうだ。
作られたのは1940年春。
その後の現実は、そのシナリオ通りに進んだそうだ。

つまり、私達は今平和を維持する戦の中にいるのだと、思う。
あるいは戦前を暮らしているのかもしれない。

私達の消費は軍需とどこかでつながっている。
湾岸戦争もアフガンもイラクもそうだった。
始まってからでは間に合わないのです。
あんなに世界的に反戦ムードが盛り上がっていたのに、
アフガンもイラクも救えなかったんだから。

小学生の時に原爆資料館で「アンネ・フランク展」を見て、
ものすごいショックを受けて、「アンネの日記」を読みました。
なぜ人々はヒットラーの危うさを見抜けなかったのか、
なぜ戦争に賛成してしまったのか、
戦争に行く人がいなければあんなこと起きなかったはずなのにと、
とてもとても考えた記憶がずっと私の根底にある。

むの さんのように自分の記憶として戦争の恐ろしさを持つ人々が少なくなっていく。
私達はしっかりと受け継いでいかなくてはならない。


*むのさんの言葉は記事から、一部を省略、抜粋したものです。

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2008年8月19日 (火)

ヒロシマから〜2

8月15日、女子サッカーの試合の途中だったか、NHK終戦特集番組になったので、そのまま見ていました。
日本に占領されていた太平洋の島々が戦場になったことは知っていましたが、実録の映像は沖縄以外あまり見た事がないように思います。
それは、それは、日本が犯した大変大きな過ちです。
1944年10月20日、日比谷では大本営が日本優勢の発表していたということ。同じ日、アメリカ軍のレイテ島上陸が始まり、ものすごい鑑砲射撃の後上陸したアメリカ軍の戦車は、日本兵が潜む壕を潰して行ったそうです。中からは息絶えるまで軍歌が聞こえていたと。
陸軍大本営は沖縄と同様に、レイテを本土上陸の捨て石にするつもりだったんでしょう。この非人道的な作戦に対し、当時の陸軍のレイテ作戦の司令官は、「将来の戦史の避難の的になる。すみやかに中止せよ。」と訴えています。
現位置固守の命令に背き、自分の隊を撤退させた大隊長は、その責任を負い、一人敵陣へ斬り込んだそうです。(当時の日本軍にもこういう人が存在したこと、もっと知らされるべきではないでしょうか。)生き延びた兵達はジャングルのなかをさまよい、現地の人々から食料を略奪し、アメリカ軍によって組織された現地ゲリラの脅威から誰彼かまわず現地人を殺害するということもあったと。
日本兵8万人、現地の人を合わせると10万人の犠牲者。現在、80〜90代になった日米双方の生き残り達は、その悲惨な記憶と罪の意識に今も苦しんでいます。
2日後、日本軍がアヘンを利用して軍費をかせぎ、中国の人々を犠牲にした調査番組も見ましたが、日本人としてこの日本軍、とりわけ陸軍の見境の無い暴挙にはやり場のない怒りを感じます。
同じ日、ドイツのこども平和村の映像も見ました。戦争で傷ついた子ども達の姿は想像を超えるものです。そこにいる全ての子ども達の受けた傷は、戦争や紛争により大人によってつけられたものです。子ども達にはなんの落ち度もないのです。
オリンピックで歓喜にわいている今も、世界各地で子ども達の命が危険にさらされています。イスラエル軍の兵士に押し入られたパレスチナ人のおじいさんが「どうして?同じ人間じゃないか。」と言うと「お前達は人間じゃない、パレスチナ人だ。」と言われたと。ナチスも日本軍もそうでした。暴力は憎しみの連鎖を生むだけ。広い宇宙から見れば、私達は誰もがこの地球の恩恵を受けて、この地球というひとつの大きな家に住む家族みたいなもの。誰もが望んでいるはずのに、なかなか手に入らない『平和』。難しくさせているのは、貧困?欲?

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2008年8月18日 (月)

ヒロシマから

戦後63年。この時期にここに戻ってくると、やはり想像してしまいます。
終戦の年、この街がどんな様子だったかを。 実家の隣人の方に何気なく当時のことを伺いました。その方は当時小学生。広島の隣の呉市に住まわれていたので、直接の被害はなかったものの、広島に出かけていた親戚のおばさんが全身を油紙に包まれた姿で帰ってこられ、親戚中で手当てされたそうです。
そのおばさんは7ヶ月後に亡くなられたそうです。
隣人の方は、被爆者手帳を持っていなくても、その可能性のある人は大勢いると言っておられました。 戦後の差別や偏見のために、これまで口を閉ざしてきた人達も、悲劇を風化させてはならないとの思いを強くされていると思います。私達に出来る事は、その思いを聞きもらさず、国内外を問わず次世代へと伝えて行く事だと思います。

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2008年8月 8日 (金)

社会派な中学生

社会派な中学生

娘が図書館で選んだ本。

「世界の憲法集」阿部照哉・畑 博行 編
「ほんとうは、どうなの?原子力問題のウソ・マコト」上坂冬子 著
「9条を輸出せよ!非軍事・平和構築の時代へ」吉岡達也 著

上坂冬子さんの本は原発に肯定的内容で、
タイトルだけで借りてきたらしい娘は憤慨していましたが、
肯定的な情報を知ることも大切。

反論出来る良い本があったら教えてください。

いい学びにしたいです。

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2008年8月 7日 (木)

平和への祈りを行動に! -大倉紀代さんの思い

Ookura

2年程前、「発信する子どもたち」でラナちゃんバッグを作った年でした。
イラクの報告会でとても美しい女性に出会いました。
長身で、すてきなロングスカート、頭にはスカーフを巻かれていて、
控えめながらも美しい存在感がただよっていました。

4才で被曝し、14才の時に、「原爆の子の像」のモデルとなったと言われる佐々木禎子さんと同じ病室で共に3ヶ月を過ごした方。
大倉紀代さんでした。
ただ一緒にいただけだからと、それまで禎子さんについてほとんど語られなかった大倉さんですが、編集者の熱意もあり、思春期の子ども達へのいのちのメッセージとして、サダコさんのいのちの輝きを伝えようと思われて書かれた様です。

執筆中も私がお会いしたときも、ガンの治療中であまりお具合が良いわけではなかったようでした。
その頃私は、父の従姉で原爆歌人だった正田篠枝さんのことを調べていたので、もしかして大倉さんが知り合いだったりしないかと思い、お話させていただいたのでした。
篠枝さんとは面識はなかったものの、私が中学生の時に参加していた被爆者を支援する会「折り鶴の会」のことは良くご存知で、それだけでも私にとってはうれしい出来事でした。

その大倉さんも、とうとう旅立たれてしまいました、天国へと。
それは沖縄慰霊の日、6月23日でした。

Sadakokiyo
禎子さんと紀代さん

『想い出のサダコ ー思春期の入り口にいた三ヶ月ー』
文・大倉紀代  絵・夜川けんたろう  よも出版  ¥1200
*本の購入は千早書房へFAX(03-3234-3344)にて。


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平和の誓い

「原爆の日って、だいたい晴れだよね。」
今朝、娘が言いました。

63年前の今日もいいお天気だったそうです。
戦時中ではあっても、それなりの庶民の日常があったのです。

おままごとをして遊んでいた子もいましたし、
質素なお弁当を持って勤労動員に出かけていた女学生もいました。

人も融けるような熱風に襲われるまで、
広島の人々は上天気の夏の日常のなかに生きていました。

毎年、平和記念式典で繰り返される平和への誓いを、
被爆者の方達はどんな思いで受け止めていらっしゃるのでしょうか。

平和公園に行く度に、
「あやまちは 二度と 繰り返しませんから」の文字が虚しく見え、
原爆の子の像の近くに展示されているたくさんの折り鶴に、
複雑な想いがこだまするのです。

世界のあちこちに争いの犠牲者が絶え間なく存在し、
唯一の被爆国と言われる日本に、
あってはならない核の脅威が形を変え存在しています。

ウラン採掘から最終処分に至るまで、
常に放射能汚染の危険がつきまとう原発を、
55基も持つ私達の国。
そしてさらに危険なプルトニウムを
大量に取り出せる工場も稼働させようとしています。

湾岸戦争からアフガン、イラク戦争までに使われた劣化ウラン弾が、
この世界にばらまいた放射性物質の量は、
広島に落とされた原爆の44万倍だそうです。
すなわち、44万個分ということですね。

もはや核汚染に国境は無く、
核実験や劣化ウラン弾によりヒバクシャは増えているのです。
被爆者の願いは、「核廃絶」なのに。

今日の式典でのこども代表の二人のメッセージは、
私達が抱えるこれらの矛盾を突くものでした。

犠牲になられた方達や子ども達の想いを、
どう実現していくかは、私達しだいなのです。
何ができるの?と思ったら、
融けるような炎に包まれて消えていった人達を想像してください。
どこで、どんな風に死んで行ったかもわからない子を思うお母さんの気持ちを想像して下さい。

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